服喪の一日 ― 2006/05/01 16:21:31
けふ、5月1日は、アイルトン・セナ(ダ・シルヴァ)の命日である。これまで数度触れてきたやうに、12年前のけふ、1994年5月1日、サンマリノ・グランプリで、M.シューマッハの猛追を受けてゐた最中、突如後輪がグリップを失ひ、コントロール不能となつた車体は壁に激突。不帰の人となつた。
福澤の『丁丑公論』について書きたいこともあつたのだが、上記理由に付き、自粛する。明日以降、数回触れるかも知れない。諒とされたい。
合掌
明治十年 丁丑公論(一) ― 2006/05/02 15:43:01
福澤の『明治十年 丁丑公論』は、西南戦争を謂はば「ダシ」にして、メディア批判、太政官政府批判を展開したものである。時事新報社から明治三十四年(福澤の死の直前)に発表された所以は、明治八年に施行された「讒謗律」(ざんばうりつ)を恐れたからであらう。彼自身が、森 有礼、加藤弘之、西 周(あまね)らと共に発行した『明六(めいろく)雑誌』もまた、讒謗律の施行と共に自ら廃刊としてゐる。この法令は、新聞紙条例と並んで、事実上「民権運動」と政府批判の言論弾圧の口実となつた。「イヤラシイほど慎重」とは、故・藤田省三が福澤を評した言葉であつたが、筐底にに秘し「後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、その気脈を絶つことなからしめんと欲する」(緒言)旨を以て書かれたのである。
冒頭は、上記の法令を恐れる新聞を代表とするメディア批判であり、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」といふ「註」が付く。
西南の役が終了したのは明治十年九月末である。福地桜痴(源一郎)など数人の記者が、鹿児島に入つたとはいへ、その詳細は一般には知らされるはづもなく、政府発表の「逆賊西郷」といふ「官報」に忠実な論評が多数を占めた。福澤はいふ。「本年西南の騒動に及び、西郷桐野等の官位を剥奪したるその日より、これを罵詈讒謗して至らざるところなし。その有様はあたかも官許を得て人を讒謗する者のごとし」(講談社学術文庫 12頁 筆者が入手した際は品切れであつたが、現在再版された模様)。
今日誰もが知るやうに、西郷上京の「名分」は、暗殺の意図の真偽を太政官政府、ヨリ正確には大久保利通に直接質すことであつた。私学校党員が警視庁警部・中原尚雄から得た、と、される「供述」は、凄惨な拷問の末に「捏造」された物であるが、そもそも、西郷暗殺の「噂」は、海老原穆(えびはら ぼく 1830~1901)といふ薩摩出身のジャーナリストが「評論新聞」に掲載した憶測記事にあつた。反大久保で知られた人物である。
福澤は、「暗殺云々は分明ならず」と留保してゐるが、当時の新聞記者ほど当てにならない者はゐない。或いは、「今」もさうかも知れない。
丁丑公論(二) ― 2006/05/03 16:09:36
けふは「憲法記念日」でもある。『公論』を紹介するに相応しい日ではないか!
冒頭のメディア批判に続き福澤は、西郷を擁護し、返す刀で太政官政府を痛烈に批判する。
世論が「初度の顛覆と再度の顛覆とその趣(おもむき)を異にし、その寛猛軽重の差あるかのごとく」論ずる態度を戒め、「政府の交告」を以て西郷を誹謗する者の「見識はただ紙に記したる字義を解するのみ」とし、「明治六年の政変」の経緯をたどり、政府自らが西郷の帰郷を許し、俸禄を支給し続け(実際、「陸軍大将」としての給与は鹿児島県令当てに送られ続けた)た事実と「維新以来鹿児島県の歳入は中央政府の金庫に入りたることなし」といふ事実を上げ、「乱の原因は政府に在りといふて可なり」とする。そして、痛烈な一節が続く。
「また、薩の士人は古来質朴率直を旨とし、徳川太平二百五十余年久しきもついに天下一般の弊風に流れず、その精神に一種貴重の元素を有する者といふべし。然るに該藩の士族にして政府の官員たる者は、やうやく都下の悪習に傚ひ、妾(せふ)を買ひ妓を聘する者あり、金衣玉食、奢侈を極る者あり、或は、西洋文明の名を口実に設けて、非常の土木を起し、無用の馬車に乗る等、郷里の旧を棄てて忘れたる者のごとし。これに反して、薩に居る者は依然たる薩人にて、西郷桐野の地位に在るものにしても衣食住居の素朴なること毫も旧時とに異ならず」(前掲書 36頁)。
「明治七年内閣の分裂以来、政府の権はますます堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし」(同 42頁)。
「政府は直接の士族の暴発を防がんとしてこれを未発に止ること能はず、間接にこれを誘導するの術用ゐずして却て間接にその暴発を促したるものといふべし。故にいはく、西郷の死は憐れむべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと」(同 45頁)。
驚くべき事は、西郷と自分の主張の違ひを自覚し、多少、的外れの観があるけれども「西郷に学問があれば……」等と書いてはゐるが、政府の内情や、事件の本質(政府の挑発行為等)を見事に見抜いてゐる点である。
不幸な事に「官」の性質は、今も些かも変はつてゐないのであるが……。
西郷札 ― 2006/05/05 16:25:19
西南戦争は、後に「♪越すに越されぬ田原坂(たばるざか)」と唄はれた熊本県北西部で戦はれた緒戦での敗退で事実上決したと言つて良いだらう。この場合、難渋したのは「政府軍」であるが、側面攻撃により突破した。薩摩軍に戦略・軍略がないといふのは、ただでさへ少人数の自軍を、熊本鎮台(旧熊本城)と田原坂方面に分けたことである。「二正面作戦」は軍略中「愚の骨頂」と言はれる。
参謀桐野は、鎮台兵(徴兵で集められた「百姓・町民の軍隊」)を軽侮しきつてゐた。実際、神風連の乱では、一時的とはいへ、当直の兵は殆どが惨殺されるか逃亡してしまひ、熊本県令も自宅で非業の死を遂げた。白兵戦に弱かつたのは確かであつた。無理もない、剣術など習つた経験はない。頼みは、「スナイドル銃」と呼ばれる薬莢付の新型銃であり、従つて接近戦は苦手とした。偶々当直でなかった児玉源太郎の手によつて、翌日鎮圧されるが、それほど鎮台兵は弱い、といふ評判がたち、桐野は、熊本鎮台など青竹一本で叩きつぶすと豪語した。が、少将 谷 干城(たてき)と副参謀 児玉は、加藤清正が創り上げた名城熊本城を「籠城」といふ手段で守り抜いた。薩軍は、白兵戦には滅法強いが、籠城されては兵糧攻めしかなく、時間を食つたのである。
やがて、全国の鎮台から兵が集められ、巡査(元士族)まで駆り出され、薩軍は、熊本から後退。今日の宮崎県南部をほぼ一周し、可愛岳(えのだけ)と呼ばれる断崖絶壁を岩登りのやうにして這い上がり稜線沿いに帰郷。城山に籠もるのである。
司馬が、「昭和陸軍のやう」と評するのも無理はなく、食糧・弾薬は尽き、現金も不足した。漁師が使ふ網の重り(鉛製)まで徴発し弾丸を作り、金は、軍票を発行した。西郷札(さいごうさつ)と呼ばれる不換紙幣である。
松本清張の事実上のデビュー作は「西郷札」(新潮文庫)である。芥川賞受賞(昭和27年下半期)の前年に、「週刊朝日」に掲載された懸賞小説であつた。短編ではあるが、歴史小説として抜群に面白いだけでなく、人の心の機微を描くことに関しては、後年の姿を既に彷彿とさせる。御一読をお勧めする。
一周年 ― 2006/05/06 15:57:04
けふ5月6日は、こちらへ移転して丁度一周年である。昨年は、4月29日から5月5日までを移転のため全面休講とし、引つ越し、平日の電話機の設置、数へ上げたらキリがないほどの忙しさであつた。お手伝ひ戴いた方々に改めて篤く御礼申し上げる次第である。
幸ひ、新しい環境に順応し、快適な一年であつた。
今後とも、皆様のご協力を賜りたく、重ねて、宜しくお願ひ申し上げる次第である。
怱々
丁丑公論余話 ― 2006/05/07 15:37:07
「福沢が『日本国民抵抗の精神』の貴重さを説いたとき、彼はおよそイデオロギー的には対蹠的で『反動的』な西郷にひきいられた西南戦争を念頭に置いたのである。そうして抵抗にイデオロギー的次元と独立な意味が認められる瞬間に、それはまた特定の政治的、社会的、経済的な制約をこえた人間そのものの意義への問いを呼びおこさずにはおかない」。(丸山眞男「反動の概念」 初出1957 現行『全集』第七巻110頁)
晩年、丸山は、福沢の西郷擁護を「浪花節的」と評したが(『自由について 七つの問答』 SURE 2005 所収)、福澤は、既に藩士時代から、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といふ相対主義の観念を持ち、慶應二年には、「総て名義と申は、兵力に由り如何様にも相成候事にて……」(丸山眞男『忠誠と反逆』ちくま文庫 51頁)と書いたやうに、あらゆる政権の先験的な正統性は認めなかつた。『丁丑公論』では、「……今の政府の顕官も十年以前西郷と共に日本国の政府たる旧幕府を顛覆したる者なれば……」といふ表現になる。
以前藤田省三の読解に基づき「近況報告」(2003年度2月)で触れた『痩我慢の説』の冒頭、「立国は私なり、公に非ざるなり」の名文句は既に胚胎してゐたといへよう。同時に、彼は、政府の務めは「人民の幸福を進め」ることにあるとし、徳川政権を「有名無実」であるが故に「之を顛覆するも義に於て妨げなきの確証なり」といふ。
「勝てば官軍」といふイロニーは認めなければならない。しかし、所謂大勢順応主義(オポチュニズム)に陥り「政府の飼い犬」に成り下がつたメディアと、「讒謗律」等による言論弾圧を強める新政府には我慢出来なかつたのであらう。
M.シューマッハ連勝! ― 2006/05/08 15:21:46
大型連休も終はり、といひつつ、ここ数十年一度も「恩恵」は受けてゐないが、街の表情が元に戻つた。天気だけが一転して下り坂模様。早くも走り梅雨か?
一昨日、先日とは別の友人からTEL有り。山小屋の指示に順ひ、入山(涸沢)を見送つた由。代はりに忍野(おしの)へ通ひ、桜と富士山を撮つたさうである。富士は、五合目まで雪が張り付いたまま。チューリップが咲き始めたといふ。
今年は懸念したやうに山の事故が多い。自重するに越したことはない。それほどの大雪であつたのだ。
さて、昨日はF1ヨーロッパ・グランプリ。M.シューマッハ連勝である。多気筒エンジンから、V8への転換には、相当苦労したに違ひない。やうやく本領発揮といふべきか。車体は軽くなつたに相違なく、後は空力だけである。HONDAはやつと、No.1ドライバーがバトンに勝つた。ALL HONDA体制は約40年ぶりではないだらうか?ともかく、殆どのレースで入賞者は出してゐる。来年が正念場であらう。
待望のモナコは、今月最終日曜日28日である。モナコ・マイスターは、セナであつたが、それに続く者は、シューマッハしかゐない。あの狭い公道で、セナは1インチ刻みで車体をコントロールしたといふ。セミ・オートマティック導入前には、ドライヴァーの右手の手のひらは、千回以上に及ぶシフト・チェンジで、皮がむけたといはれる。
どこか、ローマ時代の王侯貴族の「遊び」(ある種の「残酷」を伴ふ)を彷彿とさせないではゐないけれど、「遊び」とは、殆どが有閑階級である「貴族」が生み出した物である。勉強もまた、「精神貴族」の「遊び」の要素がなければ無味乾燥な「暗記」に堕する他はないであらう。
好きには……なれない、だらうなぁ~? ― 2006/05/09 16:29:14
維新の三傑といへば、西郷、大久保、木戸(桂小五郎)である。司馬に従へば、西郷は明治期を十年づつ区切り、最初の十年は「動乱の時代」、次が「再建と立憲制への準備期間」、そしてその後が「立憲制確立期」とした。周知のやうに、この「予言」は当たる。西郷自らは西南戦争で没し、その最中、終始傍観者然としてゐた木戸は脳病で病死。大久保は翌年、五月十四日、旧加賀藩士島田一良(いちろう 一郎とも呼ばれる)らにより紀尾井坂で暗殺。以後、明治16年に岩倉も没し、伊藤博文、山県有朋に代表される長州閥が維新政府の中心をなすに至る。
さて、大久保は西郷に比べ人気がない。冷酷、非情、怜悧、寡黙、専制、執拗,等々。島田が携へた「斬姦状」には、「有司専制」の罪として
① 公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。
② 法令漫設、請託公行恣に畏服を張る。
③ 不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費する。
④ 慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する。
⑤ 外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する。
の五ヶ条を上げてゐるが(遠矢浩規 『利通暗殺』 行人社)、これは、その後もこの人物につきまとふ一つの「評価」であり続けた。
無論反論もある。維新期の活躍ぶりは、一頭地を抜いてゐた事は確かであり、八面六臂の活躍と評してよい。
恐らく、岩倉使節団の一行に加はり(この使節団は大幅な期間延長を余儀なくされながら、全く成果を挙げられず、自国の外交官からさへ嘲弄された)海外視察を終へた後、ある種の変貌を遂げたと思はれる。こんな話を持ち出したのは、「征韓論」をめぐる「明治六年の政変」について「新説」を発見したからである。詳細は明日誌す。
が、誰もが引用する一節であるが、「佐賀の乱」に際し、江藤新平を処刑した日の日記に、「江藤醜躰笑止なり」と書き残してゐるのを読むと、どうしても「好き」にはなれないのである。
承 前 ― 2006/05/10 16:56:18
明治六年の政変に関する「新説」といつても、1978年に出版された毛利敏彦著『明治六年の政変の研究』(有斐閣)、並びに翌年、中公新書として上梓された『明治六年政変』であつて、旧聞に属する。今日の代表的な高校日本史の教科書は、従前通り「征韓論者 西郷 VS 反征韓論者 大久保」の図式を出てゐない。また、2003年に出た或る研究者の書物(勝田政治 『〈政事家〉大久保利通』 講談社)でも従来の図式であるから、一時期学界で認められながら、新史料等の発見で覆つたのかも知れない。
ともかく、毛利の所論は簡略にいへば、西郷は征韓論者ではなく、大久保も韓国にはさほど関心もなく、「遣韓使問題」を利用して、最大のライヴァルであつた江藤新平を追ひ落とす一種のクーデターであつた、と、要約出来るものである。
実際、大久保は、在欧中召還命令があり明治6年5月末に帰国。しかし、帰国後「休暇」をとり続け、夏には関西旅行までしてをり、その間、大蔵卿の身でありながら大蔵省には一度も出仕してゐない。使節団の失敗が余程堪へたらしい。それは、在欧の大山 巌や村田新八への書簡からも窺へる。岩倉の帰国は、9月半ばである。
先月の「近況報告」で司馬の『翔ぶが如く』を紹介したをりには、煩雑なので省いたが、岩倉の帰国とともに、「遣韓使」問題が閣議で話題となるはづであつた。ところが、岩倉の「病気」を理由になかなか閣議が開けない状況が続く。この間、裏で連絡と調整に奔走するのが伊藤博文である。ところが、西郷の迫力に屈した三条と岩倉は、10月14日に一時保留としながらも、翌15日には派遣を「決定」してしまふのである。本来、彼らは遣韓反対派であり、「味方」として強引に大久保を参議に引き入れながら、あつさり「裏切つた」訳である。激昂した大久保は直ちに辞表を提出。今度は、三条が、人事不省となり、これは仮病ではなく文字通り卒倒したらしい。右大臣岩倉が太政大臣代理を務めることになり、巧妙な宮中工作の末、23日岩倉が上奏(しかも「上奏内容」を改竄した)、翌24日天皇は遣韓延期の裁断を下し、同日(毛利に依れば前日の23日)西郷は参議を辞する。司法卿兼参議 江藤新平は、「代理人は、原任者の意向を継続すべし」との法理を以て抗議するが、岩倉はこれを無視した。15日に決定しながら、棚晒しのままにした三条・岩倉の非は明らかであるが、ともかく、見えないところで画策した者がゐたのである。
毛利説は、大久保が、江藤(肥前)、板垣(土佐)を筆頭とする遣韓使賛成派が、抗議としての意味を込め辞表を提出することを見込んだ上、この騒ぎを利用して「独裁」体制を作らうとしたといふ。確かに、征韓に反対しながら、征台論に与し、清国から僅かとはいへ賠償金を取つたその後の大久保の行動を考へると「筋」は通つてゐる。外遊後、将来の日本像を描いてゐたのかも知れない。ともかく、真実は、未だに明らかではないやうである。
一つだけ確実なのは、公家は当てにならない、といふことであらう。後白河法皇以来、朝廷の公家衆には「定見」がない。維新政府においても、政治の実権は武士出身者に限られ、公家出身者は退けられていくのである。
初夏らしい一日 ― 2006/05/12 15:59:46
天気予報がまたも外れて(?)、心地よい、さはやかな日和となつた。昨日は蒸し暑いほどであつたが、けふは、湿度も低く、本当に気持ちの良い日である。
「定休」となつたきのふは、三ヶ月ぶりの散髪と教材探し。新課程になつて以来、それまでの中学生向け教材を全て「潔く」(?)絶版としてゐたZ会が、新たに開発した新教材を発売した。が、高い。高すぎる! 一冊2,500円である!これを、五教科分、さらに教科内で細分化されてゐるから、八冊購入しなければならない。中身を見ると、新課程移行以来久々に見る良心的な教材である。所謂「発展内容」が充実してをり、色使いも程々。まぁ、仕方がない。
中学は教科書が今年から変はつたので、準拠問題集もそろそろ集める時期である。ただし、「指導要領」は従来のままである。
「教育基本法」案は政府案が閣議了解された。やはり、「有志の会」は「ガス抜き」だつたのだらうが、自民党内はポスト小泉をめぐり虚々実々の水面下の動きの方に当然関心は集まつてゐるはづであるし、小沢を党首とした民主党は、以前ほど「ヤハ」ではない。中国もしたたかなことに、「旧い友人」としての小沢訪中をほのめかしてゐる。小泉への牽制球であらう。が、現内閣に求心力は既にない。経済同友会の批判にも「どこ吹く風」の有様。
アメリカのブッシュも苦境に立たされてゐるやうである。先日の退役将軍たちの手厳しいラムズフェルド批判に続き、イラクでの不始末、ガソリンの値上がりへの無策。内憂外患になす術もなく、共和党支持派からも不満噴出の様子である。手元のNew York Times Web版(5/10)によれば、過去50年間での大統領支持率としてはワースト3であるといふ。ただし、こちらもまた、民主党人気が上がつてゐる訳ではないらしい。ただし、世論は、2004年の民主党候補者であつたケリーよりも未だにゴアの方に好意的とは皮肉である。けふ付で発覚したNSA(国家安全保障局)による電話情報の収集事件等、今後窮地に立つのではないか?
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